昭和44年8月23日 月次祭
入力者 大坪れい
今朝からのご理解に、「用心せよ、わが心の鬼が、わが身をせめるぞ」という御神訓に基づいて、御理解頂いた(?)。「用心せよ、わが心の鬼が、わが身をせめるぞ」と、ん~特に、その用心せよというところを頂いたんです。ね、私は、例えばこの御神訓でも、信心には、この用心ということが一番大事である。用心せんから、有難いものが、どこへか散漫になってしまう。用心が大事だと。
今日、朝の御祈念に(?)の高山さんがお参りをして見えとられました。お届けをされますのに、今朝方からお夢を頂いた。それに、今度高島さんが日田の方で、あるお店の責任者として、夫婦であちらへ引っ越されることになった、そこで、その日田のお店の方へ、美登里会の方たちが、全部でお祝いに行ったとこだったらしい。ところがその、せっかくこちらから行っておるのに、高嶋さんは、非常にこう冷たく、まぁあしらわれるように、あの大事にされなかったという訳である。
「先生今朝の御理解だったでしょう」と言うわけです、今朝の御理解が、その用心せよということについてですね、今日はとりわけ一つ、人間を大切にしようということであった。ね、ですから、その~私共があちらへ行って大切にされなかった。というその、お知らせ(?)。ところがその、高嶋さんところのお店の前に、もう堆く高く、大根がいっぱい積み上げてある。しかも、いく山も、こう積み上げてある。それで高山さんが思われた。
はぁここに、こげな立派な大根が、こんなに沢山出きることあれば、もう自分方辺りでね、( ? )て作らんでん、これをこうたがよかたいと思われた。ね、
それで、それを一山買わせて頂くことにした。ところが、その値段を聞いて、まぁ大根は大根ぐらいじゃからと思って、思うとったつがいけなかった。値段を聞いたところが、もうこのくらいばっかりが、1000円にもあたるというのである。けれども、まぁ買うち言うたもんだから、仕方が無いから買わして頂いたが、その時自分が言うておることが、ね、そうそう、忘れとる。「これはかいって高ついた」といよるところである。そういうお知らせを頂いた。丁度その時に、中島のこうたきさんが、お参りになっとった。
( ? )すぐ、後に出て見えたから、私はそのことを、こうたきさんに、今高山さんがね、こういうようなお知らせを頂かっしゃったげな。そのお届けがあったが、そういよったら高嶋さんがまた参ってみえて、で、高嶋さん、今日はこげな風なお知らせを頂いた、高山さんが頂いたげな。たら、高嶋さんが言われることが、「それはだいたい誰が頂かなんとでしょっか」とこう言われる。私はもう言いようがなかった(笑い)。お話を、お説教を例えば頂いとりましてもです、はぁこのお説教は、家の息子に聞かせなならんとじゃった、これは家の嫁護に分からせにゃならんとこじゃった、自分じゃない、誰が頂かなんとこじゃろかと、こう言うんです。もう言いようがなかった。
そらな~それはまぁ、美登里会の人たちが行っとるけん、美登里会の人達も頂かなんならまいばってかんか、やっぱ高嶋さんちゆう名だしがしてあるけん、やっぱこれは誰でも頂かなきゃならんことじゃろな、て言うて申しました。ね、そしたら、こうたきさんが出て来てから、実は私も今朝からお夢を頂いたち。というのは、それりゃ~もう見事なお便所に、久留米ののぐっちゃんと2人で、お便所に入ろうとこうドアを開けたところが、中に2人分の、もうそれこそ、山海の珍味をそのお膳部に乗せて…。
【テープ途中切れ 約7分】
ね、ここんところのおかげを一つ頂かなきゃ~いけません。そこでね、私は思うのですけれども、その信心が本当にね、例えばそれが、苦しかっても、厳しかっても、ね、ければけれほど、苦しければ苦しいほど、厳しかれば厳しいほど、ね、信心の味わいというものを、いよいよ噛み締めさせて頂くことができることが有難いと、気付かせてもらわなきゃいけん。そういう信心をさして頂かなきゃ( ? )。それにはなら、どういうようなことが分からなければならんだろうかということ。
私は今日4時の御祈念をさして頂いとってから、もう初め30分間ですけども、30分間、本当に大声をあげて泣きたい思いで、御神前に座っとりました。下がらして頂きましたら、丁度、東さんところのお母さんがお参りしてきとった。上野さんがここで御祈念をしておった。丁度ようこさんが、その後から参ってきておった。そん時、私はその人たちに話しました。「上野さん、本当にあんた方はね、合楽にご縁を頂いた、いや、私とあなたの縁がでけたということが、どのくらい有難い事かということをね、私は今神様から頂いて、その私とあんたとの、例えば出会いの時にです、神様がどのくらいに感動を益しましたかということである。」
一番初めに、正喜さんと私との出会いのとこを頂いたんです。もう次々にず~と、いわゆる、皆さんのですね、出会いの時を頂くんです。その出会いの時に神様が、あの時の感動をこういう風にして現したというて、教えて下さった。私と縁ができた時ですね、神様がそのように感動なさるということは、どういうことだろうか。ね、「ここに、一人助けかる氏子かできる」と、こう思いになるんですよ。ね、ですから、その神様の感動を裏切らないような信心をさして頂かないかん。
その神様がね、その時に感動した、ね、感動された。こっちの方はまだ、初めて例えば、まぁ野口さんと私の感動、あの初めてなんかは、高嶋さんに導かれて、まぁいっちょ参ってみろかぐらいのものじゃったろうけれども、片一方では全然、ただ( ? )の意味じゃったろうばってん、神様からいってみりゃ~、もうこの氏子と思うてござるその氏子に、会えなっさった感動というものは、たいした事であった。ね、そこから神様の、その野口しんこに対する所の思いというものが、様々な形によって現れてきた。ね、
だから信心とは、上野さん。私とあんたが出おうた時にです、神様があの感動をなさいました、その感動を裏切らないように、していくということが信心だということが、皆さん分かったら、今日私がいう、もう苦労なしの信心なんて、馬鹿らしかて、何十年間一生続けたって、ただお取次ぎを頂いて、時々お願いがある時お参りして、おかげを頂いたという信心が、一生続いたってダメだということが分かります。ね、これはもう、大変なことなんだ。
私と正喜さんが、一番初めに出おうたのは、親教会のあの玄関の入口である。その時に、神様が、あの時にこういう感動を見せたろうがと、私に教えて下さる。秋永先生と、私が一番初めに出おうた時に、神があのように感動をして見せたろうがと仰った。これはね、教祖の神様の中、あの御伝記の中にもございましたですね。あの時の神の感動がそのまま、あれは、何とか神社にお参りになりました。ね、そん時に、かまなりがあったち言うんですね、あん時に、神の感動を伝えとろうがというて、後でお話しなっておられます。
今日は私、座った途端に、あの正喜さんが、あの時のことを頂くんですよね。もういわゆる20年前の。もうそれこそ、この世のもんでも無いような、やっとかっと教会に、私はあそこで、あの下駄預かりをしよった、そこへ参ってきた。もう何とも( ? )痩せてから、ね、そん時に私と正喜さんの中に通うたもの、あっちは通うとらんかんしれん、
こちらから通うたもの。それから毎朝、毎朝、朝の御祈念に参ってくる、善導寺の、御祈念が終わる、御理解が終わると、私の話を聞いて下さる。それが楽しみのように、段々、私と正喜さんの間に感動が始、そのあった。ね、
秋永先生の場合だって同じことです。ね、出おうた時に、ね、神様がそのように感動しておられるんだと、もう今日はね、もう本当にそれは、あの~色々なことをね、頂きましたんですけれど、もう本当にもう、畏れ入ってしまうんです。ね、もう泣くまいと思うても、泣かにゃおれられんていうごたる、私はその30分間でした。ね、神様が例えばね、こういう有難い、それはね、あの大坪総一郎との出会いなんですよ。ね、私に対する神様の願い、かけられておる思いというものがです、ね、私と係わり合いがある人の上に起こってくるわけなんです。ですから私と出おうた時に、神様が感動なさる。
今日ね、私はあの、本当にそのことを、あの~正喜さんのことを( ? )頂いとったら、正喜さんが結婚した時にですね、それこそ初夜の晩です。ね、初夜の晩に2人で一緒に床に入る時に、もうそれこそ、神様がね、それこそバチバチいうような、そのお勇みを下さったというお届けが、そん時あったんですよ。もう例えば、久富たつえさんと、この人が一緒になる時にですね、その神様が感動なさった。お勇みというのは、ありゃ~神様の感動だということが、今日はっきり分かりました。ね、
ですから、その神様の感動をね、裏切らん信心をしなきゃいけないち(?)。ね、私が、もうそれこそ、どのくらい世の中には沢山な人間氏子があるかも知らん、いや、金光様のご信者でも、どのくらいあるか分からんけれどもです、私と縁を頂いた時にです、神様が感動益しますという、その神様の御心ひとつ悟らして頂いてです、その神様の感動を裏切ってはならんという信心が、本当に分かったらです、今日私が言う、ね、苦労なしの信心なんて、もうおおよそ、つまらないことになってまいりましょう。
それでは神様を悲しませることが分かりましょう。ね、神様が私と(拍手を一回される)神様の間にです、交わされておることがある、ね、それが一人ひとりの氏子の上に成就していく、そんなら私との出会いが、そんなに神様が感動なさるなら、それこそ三味線、太鼓ではやして回ってから、金光様の信心を、合楽の信心を宣伝して回った所でです、縁がなからなければ結ばれないちゅう、ね、その縁あっておうた時、縁あって結ばれた時に神様の感動があっておる。ですから、その神様の感動にお応え申し上げるということがです、私は合楽では信心だということになるのです。
もう私は今日は、本当にここでお話はできませんけれどもね、もう本当に神様がね、そん時に、感動益しました時の様子を、一人、色々教えて下さって、もう本当に今日ばっかりはもう、声あげて泣きたい思いでした。泣きたいちゆうか、本当に半ば泣きました。ね、そういう神様のね、切実なる私共にかけられる願いというか、思いというか、ね、現在、なるほど、今日の私の2番目の娘が、昨日この園木先生ていう、村内におられる所のお母さんが亡くなられました。それで昨日から、お葬式のお手伝いに行っております。
で、見知らんお嬢さんが見えとるが、どちらですが?と、教会。はぁ教会、あら~そうですかと、私共も参っていいでしょうかという人やら、それはまぁ色々男の方達は、あんた方には、あの久富繁雄さんが参ってきよんなさるでしょう、はぁあそこは、(?)が参ってきよる、それから、久富組やら、久富建設も参ってきよる、もう久富組はもう、合楽に( ? )ちから、一生懸命参りよる。ね、というて、そのまぁ冷やかし半分に言いなさったその方もあった。ね、
その中でです。ね、私は愛子に申しました。今の合楽にご縁を頂いておる人達は、皆ね、それこそ合楽に( ? )ておるように、朝参りやお参りでもさしてもらわねばならない人達ばっかりなのだと。ね、いわゆる、神様の今は300名のここに信者がおられるならば、その300名のすべてにです、神様が皆さんと会われた時に、感動なさっておられるということはです、ね、いうならば、あなたに頼っておられるということなんだ。お前が信心しておかげを受けてくれよ、そこから沢山の氏子が、300人が土台になって、3万人にも、30万にも膨張していくような、おかげがここから受けられるという程しにです、私共の上に、神様の大きな期待があるのです。
だからこそ、この氏子と会いなさった途端に、神様がどうにもこうにもでけん程の感動を見せておられるです。その感動の模様を一々私はお話しでけませんけれどもです、ね、ですから、現在、合楽にご神縁を頂いておる人たちは、皆その一つ、覚悟というか、私ぐらいな者に、神様が合楽にご縁を頂いたことを、そのようにも、お喜び下さってあるん、たかと、しかもそれが、感動にまでなっておると。その神様の感動を裏切っちゃ~相済まん。おかげをおかげだけでは済まん。
本気でね、家業の行ができなければならない。ね、そういう所がですね、一人一人に実感として分からして頂く時にです、ね、それこそ大根のような信心じゃ馬鹿らしか。大根のような信心さして頂いとったっちゃ~です、遠回りになる、返って高こつく。ね、毎日参っとりゃ~、例えば、100円づつお供えしたっちゃ~3000円いる、月次祭だけであったら、400円でよか。それで結構おかげを受けておる、だから…言うけれどもですね、なるほどそうのごとあるけれども、とてもそれが3000円、5000円じゃ、済まんぐらいに、なことになってくるからね。
いわば、本当の信心がそれじゃ~分からんから、ね、いわゆる信心が、返って高こうつくものになってくる、ね、大根の信心といや~です、ね、必ずそれに引当に、ごぼうのような信心というわれる。ごぼうのような信心は、長ごう苦労しておるから、ね、あらゆる事に、お役に立つと(?)。ね、御祝いごとにも、物寿ごとにも、ね、普通のお惣菜にも、あのごぼうという物は使われるように、どういう御用を頂かして頂いても、それを承れるだけの信心が望まれる、ね、
なら、そういう信心をしなさい、そういう信心をしなさいと、私がこう申しておりますけれどもです、それだけでは、それこそ、こうたきさんじゃないけれども、20年振りに、ようやくこの頃、そのことが分かったと言っておるぐらいですから、ね、私が今日皆さんに申しましたように、一人ひとりに神様が、あなた方との出会いの時に、いうなら大坪総一郎との出会いの時に、神様がどのように感動なさったことか。はぁこれから、ここから、この人が助かるんだ、この一家が助かるんだという。
ところが、その一家が助かる、人間が助かるということには一生懸命ならずに、おかげおかげばっかり言ったんでは、神様が本当にお嘆きになるということを、私は実感として分からして頂いたら、そこからのいわば信心がですね、でけてくる。そこから、信心の苦労もまた、信心のまた厳しさも、有難いものになってくるというような信心をね、身に付けて頂きたいと私は思うのです。
私は、おりある事にですね、まぁひとつ皆さんと神様との出会いの時に、神様がどういう風に感動を見せて下さったかということをですね、まぁ思い出し、思い出しお話させて
頂きましょうけれども、ね、もうその時の神様の感動の表情ていうものは、もう本当に泣きだされなきゃおられないて、神様は私ぐらいに合いなさったとつば、どうしてそげん喜びなさるちゃろかちゆうごと、喜んどんなさるです。ね、ですから、その喜びを束の間で信心を止める人、その喜びも、その感動も知らずに、こちらに感動の湧くような信心を、いつまで経っても分からないと、ね、これでは本当に神様に対して相済まんということになる。ね、
ですから、同じ信心の例えば、なら苦労をしておってもですよ、そら毎日何十年間参り続けておってもですよ、それがただ、大根のような信心が積み上げられるだけの信心ではですね、大したことはなかて。ね、それではね、それでもやっぱ神様は、どうかして分からされようとなさいますから、その時には、返って高こう付くて。ということをね、分かって頂いたら、信心に、本当の物を求めての信心というようなことが、でけてくるようになるのじゃないかと思うのですよ。どうぞ。